”A fed animal is a dead animal.”
これは、公園のパンフレットに書いてある標語。英語、ドイツ語、フランス語、そして日本語!で書かれているのだ。「自分で餌をみつけることのできない動物は死ぬほかない。」だから、えさをやっちゃ(FEEDしては)いけないのだ。オカザワ家も守りました。私たちが見た限り、餌をやってた人はいなかった。食べ残しや、ゴミも頑丈な鉄板のふたのついたゴミ箱にいれるようになっているのだ。しかし、こどもには、FEEDする楽しみのほうがランクが上だ。野生動物を見つけるより、牧場でロバにニンジンをFEEDしたのがおもしろかった、と彼らは後に語った。
公園や野生動物を守るために、いろんなところに、さすがやな、と思わせる配慮があって、管理も行き届いていて、客達もマナーがいい。客のマナーがいい、というのは、結局、国民のレベルが高いのだ、と思われがちだがそうじゃない。マナーのいい人=きちんとした教育をうけた人=経済力のある人なんだな。カナディアンロッキーを行く人たちは、見るからに裕福な人ばかりです。ほとんど白人、いい服着てる。そもそも歴史的にカナディアンロッキーは、特権階級の白人の金持ちのリゾート地として開発された。だから先住民たちがいなくて当たり前なのだ。
マナーはできてないがカネがあるので旅行が出来る日本人。日本てやっぱり豊かでいい国、平等な国なんだと思う。私たちが住んでいるところは滋賀の山のふもとで、きれいな川があって、アウトドアには絶好の土地なのだが、ごっつー道具を揃えて大挙して押しかけるバーベキュー族のマナーの悪さでどこもかしこも汚いったらありゃしない。休日に楽しみに行っても、ふつふつ湧く怒りで、楽しさ半減だ。欧米の階級社会が恋しくなる。(私たちがどこの階級に属するかには触れないよ、卑屈になるから)
親にハガキを書いた。「ここは北海道を10個くらいあわせたようなところです」数字はともかく、海のない大きな北海道、じゃないかと思う。老夫婦なら、わざわざここにこなくても(体力的、言葉の問題を含めて)北海道や信州を車で丹念に見て回るほうをすすめる。そう言うと夫は反論した。 彼は長野の出身で、どこの山に行ってもそれほど感動しない。しかし、カナディアンロッキーは、「山が全然ちがうで、別格やで。これはみるべきや」という。
モントリオールにいた人で、いろんなところに旅行したのにカナディアンロッキーだけは、家族では行かない、という人がいた。聞くと、「独身の時に旅行したの、その時の感動や記憶が薄れるのがいやだから、絶対行きたくないの」と言う。その時は、「それはそれ、こんどは夫や子どもとわかちあえるから別物じゃない」と言ったけど、あのずどーんとそびえたつ山々の感動は、とっておきたいかもねぇ。うん、わかるわ。
やはり、生涯に一度はみておくのがいいかも、母よ。しかし、体力という面では、北海道も危ういですね。みんな、若いうちにお金とヒマを工面して行っておくれ。若ければ、カップルなら、一人なら、もっともっと楽しめると思う。若ければ、その旅行が人生を変えることだってあるし。ラフティングとか、乗馬ツアーとかは、おばさんにはできませんからね。
まぁ、そうは言っても、旅行は楽しいものだ。私たちは、この旅行で、思いっきり「家族した」ので良かった。あれからもう2年がたって、子供達がそれぞれの世界を作り、離れていってるのがわかるからよけいに、あの頃の幼い子供達が本当に愛しい。あそこにも、あんなところにも、息子の野ぐそがある、と思うとおかしくて、愛しい。私たち夫婦は、一生これらの旅行の思い出を肴に暮らして行けそうな気がする。氷河の山と幼い子の姿はセットなのだ。
「一生分の旅行をしたからもうどこへも行かなくても大丈夫」
そう言いながら、日曜日もゆっくり家で過ごしています。
旅行ってほんとにいいもんですねぇ。思い出パズルつながったわ、よかったわ。読んでくれたみなさん、私も行きたい、と思えましたか?もうちょっとお金ためてから行ったほうがいいいわね、ってか?「次はもうちょっと、リッチな旅行を!」が明日へのエネルギーとなるのだよ。わーはは。
じゃぁ、このへんで。おるぼわー。